赤坂氷川神社は、創立は天歴五年(九五一年)現在のIツ木通り赤坂不動尊辺りに鎮座したとされ、徳川八代将軍吉宗公が将軍職を継ぐに至り、享保十五年(一七三〇年)に現在地に遷座されました。現社殿は、震災・戦災に耐え当時のままの姿を残す築二八〇年の東京都文化財。現在の社地は元禄の頃、忠臣蔵・浅野内匠頭の夫人瑶泉院の実家屋敷。境内地には勝海舟翁が命名の「四合稲荷」が、お祀りされている。今年の赤坂氷川祭では、「恵比寿」「頼朝」「翁」の 3台の氷川山車が連合で巡行 二日目は山車【翁】が巡行された。人形は、弘化二年(一八四五年)、松雲斎(古川)徳山により作られた。徳山は、五月人形や山車人形づくりの名工として、天保の終わりから弘化・嘉永にかけて活躍。翁は完成度が高く、円熟期を迎えていた徳山の力量を示す資料としても貴重です。平成二二年に人形を、今年は胴ガラを修復し、初お披露目でした。赤坂氷川神社を出発し、外堀通り~虎の門~赤坂Bizタワー前へ
|
山車[翁] 初お披露目
人形は、弘化二年(一八四五年)、松雲斎(古川)徳山 五月人形や山車人形づくりの名工 平成二二年に人形を、今年は胴ガラを修復し、初お披露目 |
|
|
氷川曲車と祭りについて 「氷川祭」はもともと神社の宮神輿を氏子町の山車十三台が警固する形で巡行していました。その様子は神社拝殿に納められている「祭礼山車行列額絵」が物語っています。同時代、江戸東京の各神社でも山車の巡行が行なわれており、中でも江戸城の将軍の上覧を許されていた、山王日枝神社と神田明神の祭礼(「天下祭/御用祭」)には江戸城の門をくぐる際のカラクリをもつ「江戸型山車」の巡行が盛んでした。しかし大正期頃から各地の山車が祭から姿を消し、また震災や戦災で都心の山車は壊滅状態、残った一部も地方へ流出した中、当赤坂氷川神社の山車は完全な形ではありませんが、奇跡的に昔の部位が数多く残存していました。赤坂氷川山車の修復維持を目的としたNP口法人「赤坂氷川山車保存会」を設立。多くのご支援ご理解を得られた結果、平成十九年、約百年ぶりに山車の車輪が氏子の地につきました。翌年更に一台が完全復活し、二台の連合巡行を実現。昨年の氷川祭礼では三台目の山車が完成。地域が一丸となり復活した氷川山車は未来に伝え守るべき文化遺産です |
|